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by saiaala
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<   2012年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

映画の解説を行いました

 映画「道―白磁の人」の上映にあたって、時代背景の解説を行いました。
 12月20日に行われた映画会で、映画の主人公、浅川巧と韓国併合などの時代背景について映画の前に解説をしてほしいと要請を受け、各回の始めに解説を行いました。
 解説した内容と、10分間では話しきれなかった内容について紹介します。

※今日の映画の主人公、浅川 巧とはいったい何者なのでしょうか。

※いま、ソウル郊外にある、浅川 巧のお墓には花が絶えることがなく、韓国の教科書には、その名前と功績が記されている数少ない日本人です。遅ればせながら、日本の教科書、教育出版、中学2年生の歴 史教科書にも取り上げられている人物です。

※林業技術者の彼は、1914年大正3年、23歳の年、兄を追って朝鮮半島に渡り、『朝鮮総督府、林業試験所』に勤務し、荒れ果てた朝鮮半島を緑で覆い尽くそうとした男です。

※朝鮮総督府が打ち出していた林業政策は、成長の早い外来種を植林し、木材の出荷を早めるという国策に則ったものでした。例えば鉄道の枕木に使う松などです。巧は、朝鮮の在来樹種に注目して、生命力と土壌に適応した苗を育てる方法の開発に成功します。それは世界初の画期的な方法で「露天埋蔵法」と呼ばれました。

※また、その林業試験所の仕事の傍ら、朝鮮の雑器、陶磁器を収集して朝鮮民族が日々使う用具の中にある美、「用の美」を発見し、日本人が生みだした「質素の美」「侘び・さび」の原点を探り当てることになります。

※このような人物、浅川巧が生きた韓国・日本の時代背景の概略をお話しします。

※浅川 巧は、1891年、 明治24 年 、山梨県北巨摩郡に生まれます。

※1904年 明治37 年、巧13歳の時に、日露戦争が始まります。

※この時代、韓国に対して日本は、矢継ぎ早に支配体制を固めていきます。
 日露戦争開戦中の1904年8月に、第1次日韓協約を締結。
 日露戦争終結直後の1905年11月には、第2次日韓協約締結。
協約締結といっても、すべて押しつけです。
 韓国から外交権を剥奪するとともに、「韓国統監府」を設置して韓国政府への支配力を強めます。初代統監は伊藤博文でした。

※さらに、1907年明治40年には、韓国皇帝(高宗)を退位させ、第3次日韓協約を結んで、軍隊を解散させ、司法・警察権をも掌握してしまいました。言論の口をふさぎ、集会と結社の自由も奪いました。
 これに対して韓国全土で「日本を追い出せ」という、農民を中心にした義勇軍による「義兵闘争」が広がります。解散させられた軍人も義兵 に加わりました。

※この、義兵による武装抗日闘争と並んで、言論、出版、教育などの活 動を通じて、愛国精神を培おうとする愛国文化啓蒙運動も活発に展 開されました。この運動の中で育った安重根(アンジュングン)が、ハルピン駅頭で伊藤博文を射殺したのは、1909年10月のことです。彼 は死刑に処せられました。

※日本は、義兵を完全に鎮圧することなしに韓国を植民地にすることは できないと考えて、大規模で容赦ない軍事作戦を断行し、制圧します。そして、1910年、明治 43年8月22日、韓国を強制的に併合しました。
 「併合」という言葉ですが、当時の外務省高官の記録に、「言葉の調子があまり過激にならないような文字を選ぼうと思い、苦心の末、『併合』という文字を閣議決定の文書に用いた。本来『韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となる』ということだった」とあります。
 つまり、ひと言で言えば『植民地にする』ということです。

※「併合条約」に調印した統監は、陸軍大臣寺内正毅で、引き続き日本の陸軍大臣のまま、初代の朝鮮総督に就任します。
 現職の陸軍大臣が植民地の総督を兼任したことに象徴されるように、「併合」以後の日本の朝鮮支配は、義兵闘争の鎮圧の中で強化してきた軍事的支配をさらに強めます。
 朝鮮総督府の規程では、総督は必ず陸・海軍大臣から選ぶことになっています。
 総督の直接の上司は天皇で、総督は朝鮮にいる日本の陸海軍をひきい、朝鮮での立法、行政、司法の権限すべてを握っていました。

※この間、巧は、1906年 明治39年、15歳で山梨県立農林学校入学。
1909年、明治42年には農林学校を卒業し、18歳で秋田県大館営林署に勤務します。

※1913年大正2年、朝鮮陶磁器の美しさに注目していた巧の兄・伯教は、母を連れて植民地統治下の朝鮮へ渡ります。兄を慕い、その影響を強く受けていた巧も朝鮮行きを決意し、翌年1914年には、就職 していた秋田県大館営林署を辞め、朝鮮に渡って朝鮮総督府林業試 験所の職員として働きはじめます。

※巧が朝鮮に渡った1914年大正3年は、強制併合から4年後であり、日本統治下の朝鮮に移住した日本人は、その多くが日本での生活に困 窮し「一旗揚げよう」と、一縷の希望を抱いた者たちか、国策を推進する役人や軍人、教育関係者でした。
 いずれにしても、ほとんどの者たちが植民地の朝鮮民衆を自分より弱い立場の人間と見なして、蔑視をあからさまにしていました。

※さて、1917年、大正6年11月7日、第1次世界大戦のさなか、ロシアで世界最初の社会主義革命が起こりました。
 朝鮮人の独立への気持ちに大きな励ましになったことはいうまでもありません。1918年、大正7年、日本でも史上空前の「米騒動」が起こりました。米騒動は日本の労働運動・農民運動・学生運動をはじめ、あらゆる分野の社会運動を引き起こすきっかけになりました。
  それが日本にいた朝鮮人にも影響を与え、在日朝鮮人の独立運動を活発化させる一つの要因ともなりました。

※1919年、大正8年2月8日、朝鮮人留学生が東京・神田の朝鮮キリスト教青年会館に集まり、「独立宣言文」を朗読して全員逮捕されます。 これをきっかけに、3月1日、韓国・京城(ソウル)の中心にあったパゴダ公園に数千人の学生が集まり、独立宣言書を読み、市内にでたデモ隊は口々に「独立万歳」を叫び、数万人のデモになりました。
 3.1独立運動と呼ばれています。
 総督府側は一時うろたえましたが、にわかに軍隊を出動させて鎮圧にかかります。誰1人武器を持っていない朝鮮人に、日本軍、警察は発砲します。   巧28歳でした。 巧は40歳で亡くなりました。

※歴史的背景は、まだまだ重要な事柄がたくさんありますが、ここまでとします。

※最後になりますが、歴史に学び、本当の理解と平和を実現することは、今日の東アジアで生きていく私たち一人ひとりの課題です。
 日本だけでなく、アジアの各国政府も、市民も、自国中心的な政策から脱却して、隣国と共生できる知恵を集めなくてはなりません。
近くて遠い国ではなく、近くて近い国の関係にしなくてはなりません。
 市民運動の国際的な連帯、協力は、その一つの道になるでしょう。

 その先駆けとしての浅川 巧の生涯、そして、最初にお話ししたように、日韓の教科書に載るほどの浅川 巧とは何者なのかを、映画でお探しください。 お話を終わります。ごゆっくりご鑑賞ください。


 以上が映画の前段でお話しした内容です。
 以下補足的資料も紹介します。


 日本による韓国併合から4年後の1914年、故郷・山梨から京城(現在の韓国・ソウル)へ渡った23歳の日本人青年、浅川 巧。京城の荒れてしまった山々に緑を取り戻すため、朝鮮総督府の林業試験所で働き始めた浅川は、現地で目にした白磁の壺や膳などの美しさに魅せられる。やがて浅川は、同じ試験所に勤める朝鮮人、イ・チョンリムとの生涯にわたる友情を育んでいくようになる。
「日本人と朝鮮人がわかり合えるなんて、見果てぬ夢なのか」と思われる程に、日韓の溝が深かった時代。政治的な状況や周囲の懸念に戸惑いながらも、同じ土の匂いをかぎ、樹々の成長を喜びながら、互いへの理解を深めていこうとする彼らの姿は、さまざまな違いこそあれ、国を越えて親交を深めていく現代の私たちにも通じるものがあるだろう。

 韓国の首都ソウル郊外の共同墓地に、浅川巧という一人の林業技手が眠っています。彼が生活した当時の朝鮮半島は、日本による植民地統治のもと、朝鮮の人たちへの蔑視や差別が当然のように行われていました。そんな社会情勢の中、彼は自らの意志で朝鮮の国と文化と人々を理解しようとし、そして、心から愛しました。墓の碑文には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれています。

◆ 祖父と兄に育まれて
 浅川巧は1891年1月、山梨県の八ヶ岳南麓の村(現在の北杜市高根町五町田)に、父・如作、母・けいの第3子として生まれました。父親は巧が生まれる半年前に病気で亡くなったために、母親が家業の農業兼紺屋(染物屋)を守り、祖父の小尾伝右衛門が父親代わりになって3人の子の面倒を見ました。祖父は俳句の宗匠(俳号を四友)として優れ、茶道や陶芸にも造詣が深い知識人であるとともに、高潔で穏和なその人柄は多くの村人に信頼されていました。父親を知らない巧はそんな祖父を誇りに思って育ちました。
 植物を育てることが好きな巧は山梨県立農林学校に進学します。そして、同じ年に師範学校を卒業して教職に就いた7歳年上の兄・伯教と共に甲府の郊外に家を借り2人で生活をはじめます。子どものときから常に大きな存在だった兄と暮らすことで、兄の影響からキリスト教や白樺派の考えに傾倒していきました。
※白樺派 雑誌『白樺』の同人やそれに同調する人々をさす。理想主義・人道主義・自由主義的な理念や作風をもつ。

◆ 同じ人間として
 1913年、朝鮮陶磁器の美しさに注目していた兄・伯教は、母を連れて植民地統治下の朝鮮へ渡ります。兄を慕い、その影響を強く受けていた巧も朝鮮行きを決意し、翌年には就職していた秋田県大館営林署を辞め、朝鮮に渡って朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の雇員として働きはじめます。
 当時の朝鮮は、帝国主義に踏み込んでいた日本が韓国併合をおこない、朝鮮総督府による植民地統治を始めていました。これによって朝鮮社会は永続的な厳戒令下におかれた状態となっただけでなく、日本による同化政策の強制や農地・山林の収奪など、民衆は苦しい生活を強いられることになっていました。
 朝鮮の人々に対して日本人のあからさまな蔑視や差別が当然のようにされている状況を目にした巧は、「朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました」と、心の内を友人の柳宗悦に宛てた手紙に書いています。
 ※柳宗悦 白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民芸運動を起こした。

 同じ人間として、朝鮮の人たちと真の友人として関わりたいと考えた巧は、朝鮮語を習って流暢に話し、普段は朝鮮の衣装を着て、朝鮮の家屋に住み、朝鮮の酒を飲むなど、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのために、よく朝鮮人と間違えられ、時には同じ日本人から屈辱を受けることがありましたが、抵抗することもせず、この国の人たちの苦しみや痛みを知ろうとしました。

◆ 林業技手として
 林業試験所での巧は樹木の養苗に関する試験や調査に携わります。当時の朝鮮の山は、乱伐や盗伐などによって荒廃していました。そんな朝鮮の山を緑化することを夢に、巧の林業に関する調査研究は植栽や病害虫、肥料など多方面に及びました。そして、養苗に使う種子を採取するために朝鮮人の作業員と朝鮮各地を回り、その先々の暮らしを見聞きしながら、人々とも触れあいました。
 巧の仕事で最大の功績とされるのは、当時、人工的には難しいとされていたチョウセンゴヨウマツなどの種子の発芽を可能にする、「露天埋蔵発芽促進法」の開発がありました。この方法はよくいっしょに歩いた作業員の話をヒントに、自然に学ぶ巧の基本姿勢から生み出されたものでした。

◆ 朝鮮の民芸品に魅せられて
 巧は林業技手として働く傍ら、兄・伯教の朝鮮陶磁器の研究調査に協力するとともに、これまで誰も評価することがなかった、朝鮮に古来から伝わる民衆の工芸品(民芸)の美に惹かれ、その研究にも没頭します。こうして、朝鮮での暮らしの見聞に基づく巧の研究は、著書『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』となって結実します。
 壊されていく朝鮮文化の保存の必要性を強く感じた巧と兄・伯教、柳宗悦の3人は、朝鮮民族のための美術館を設立しようと、「白樺」の同人と協力し合い、寄付を募り、その実現化に奔走します。そして、豊かとはいえない生活費の中からさまざまな工芸品を買い集め、1924年、ソウルの景福宮内に「朝鮮民族美術館」を開館させます。この美術館の名前に“民族”という文字を入れたのは、日本の同化政策に抵抗する彼らの思いが込められていました。

■大正12年9月19日の日記

 一体日本人は朝鮮人を人間扱ひしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。(中略)[関東大震災について]自分はどうしても信ずることが出来ない。東京に居る朝鮮人の大多数が窮してゐる日本人とその家とが焼けることを望んだとは。そんなに朝鮮人が悪い者だと思ひ込んだ日本人も随分根性がよくない。
 よくよく呪はれた人間だ。自分は彼等の前に朝鮮人の弁護をするために行き度い気が切にする。今度の帝都の惨害の大部分を朝鮮人の放火によると歴史に残すとは忍び難い苦しいことだ。日本人にとつても朝鮮人にとつても恐ろしすぎる。
 事実があるなら仕方もないが、少なくも僕の知る範囲で朝鮮人はそんな馬鹿ばかりでないことだけは明かに云ひ得る。それは時が証明するであらう。

◆ 朝鮮の土となる

 1931年2月から3月にかけて、養苗についての講演を朝鮮各地で行って帰宅した巧は、仕事の疲れからか風邪をこじらせていました。それでも、健康に自信のある巧は、無理をして勤めに出ますが、急性肺炎となり、27日から床に臥せます。高熱の中、『工芸』に載せる原稿を書きあげたり、葉書を書いたりしますが、4月2日の夕刻、周囲の願い虚しく、40歳の若さで急逝しました。意識が遠のく中で、「責任がある…」と繰り返し叫んだといわれています。
 葬儀は、激しい雨の中、巧の死を惜しむ大勢の朝鮮の人たちに見守られながら行われました。真っ白な朝鮮の服を着た巧は、重さ150キロもあったという二重の棺に納められ、里門里の共同墓地に朝鮮式に埋葬されました。このとき、「棺を担がせて欲しい」と申し出る朝鮮の人たちが多すぎて応じられない程でした。
 誰よりも朝鮮の人々を愛し、愛された巧の人間としての生き方は、多くの人に語り継がれています。1942年、巧の墓はソウル郊外の忘憂里に移されましたが、今も彼を慕う韓国の人たちによって守られています。

◆浅川 巧 年譜

西暦 和暦 年齢 事項
1891 明治24年0歳 1月15日、山梨県北巨摩郡甲村に生まれる
1897 明治30 年6歳 村山西尋常小学校(現・高根西小学校)入学
1901 明治34 年10歳 祖父・小尾伝右衛門死去
1904 明治37 年13歳 (日露戦争)
1906 明治39 年15歳 山梨県立農林学校入学
1907 明治40 年16歳 (抗日義兵闘争が朝鮮全土に拡大)
1909 明治42 年18歳 秋田県大館営林署に勤務
(安重根がハルビンで伊藤博文を射殺)
1910 明治43 年19歳 (韓国併合)
1914 大正3 年23歳 大館営林署退職、朝鮮半島へ渡る
         朝鮮総督府農商工部山林課に勤務
         (第一次世界大戦)
1916 大正5年 25歳 浅川みつえと結婚
1917 大正6 年26歳 長女・園絵が生まれる
1919 大正8 年28歳 (三・一独立運動)
1920 大正9 年29歳 千葉県我孫子に柳宗悦を訪ねる
        「朝鮮民族美術館」設立運動を企画
1921 大正10 年30歳 妻・みつえ死去
1923 大正12 年32歳 (関東大震災/朝鮮人虐殺)
1924大正 13 年33歳 「朝鮮民族美術館」設立開館
        露天埋蔵発芽促進法を開発
1925 大正14 年34歳 大北 咲と再婚
1926 大正15年 35歳 次女生まれるが死去
1927 昭和2 年36歳 兄・伯教と共に分院窯跡調査
1929 昭和4 年38歳 「朝鮮の膳」刊行、釜山の窯跡調査
1931昭和 6 年40歳 4月2日死去、里門里の共同墓地に埋葬

 浅川巧は朝鮮のはげ山を緑で覆うことを使命だと思っていた。全国を巡り木の種類を選び、植樹を続けた。また、自然な状態の土の力を生かす「露天埋蔵発芽促進法」でチョウセンゴヨウマツ(朝鮮五葉松)の種子を芽吹かせる方法を開発した。チョ・ジェミョン元林業研究院長は生前「チョウセンゴヨウマツは当時、2年間かけて苗木を育てていたが、浅川先生が考案した方法のおかげで1年に短縮できた。今、韓国の人工林の37%は、浅川先生が手掛けたもの」と話す。

 浅川巧はとりわけ朝鮮の工芸を愛した。実兄は「朝鮮古陶磁の神様」と称された浅川伯教(1884‐1964)だ。各地の窯跡で陶磁器や破片を集め兄に渡す一方で、自らも朝鮮の膳文化を研究した。「朝鮮の文化は中国の亜流」という日本人の主張に反論し、朝鮮の食卓を取り上げ、朝鮮文化の独自性を訴えた。生前に出した本『朝鮮の膳』にはこう書いてある。「疲れに疲れている朝鮮よ、他人のまねををするよりも、今ある大切なことを失わなければ、近く自信に満ちた日が来るだろう。これは、工芸に限ったことではない」。死後も朝鮮陶磁器の研究書『朝鮮陶磁名考』が出版された。鄭良謨(チョン・ヤンモ)元国立中央博物館長は「韓国の工芸品や陶磁器の歴史を研究する人々にとって宝物のような本」と評している。

 1931年4月2日に40歳の若さでこの世を去った浅川巧の葬儀は林業試験場の広場で行われた。葬式では土砂降りの雨にもかかわらず、大勢の朝鮮人たちがひつぎの載せられたこしを担ぐことを志願、交代で担いだという。遺言に基づき白い韓服を着て朝鮮人共同墓地に埋葬されたが、今は忘憂里共同墓地に移された。京畿道抱川市光陵の国立林業研究所(旧林業試験場)には、浅川巧が植えたチョウセンゴヨウマツが今も立っている。浅川巧の故郷・山梨県北杜市には2001年、浅川伯教・巧兄弟の記念碑が建てられた。
 忘憂里共同墓地に墓参に訪れる人も増えている。80周忌に合わせ韓国で出版された『韓国を愛した日本人』(bookie社)には韓国人高校生たちの感想文が掲載されている。「隣国・朝鮮をこの上なく愛した浅川巧の国・日本は、私にとって知りたい国になった」(ソウル・清潭高校2年生)。ソウル国際親善協会のイ・スンジュ会長は「今回の学術会議が、両国国民が尊重し合う方向に進み、同じ地球に住む者として成長・発展するきっかけになれば」と話している。

 日韓のスタッフによって両国の対立の時代を描く「白磁の人」。
高橋監督は、シナリオ作りでの難しさの1つとして、歴史事項の名称にまつわるエピソードを挙げた。「『日韓併合』という言葉には、韓国側から言うと『強制』という言葉が付くんですよね。それを読んだ韓国の年配の人から『これは『(韓日)強制併合』にすべきだ』と申し出がありまして。僕はこの映画を撮るに際して、どちら側にも立たないというか、日本人としての立場で描こうという意識も、韓国側に立って日本を批判しようという意識もなかったので、プロデューサーの判断に委ねました。だから、日本で上映する時は『日韓併合』、韓国でする時は『(韓日)強制併合』となっていいんじゃないかと思っています」。


<参考文献>
※日本近現代史を読む(新日本出版社)
※日本・中国・韓国=共同編集 未来をひらく歴史(高文研)
※これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史 中塚明(高文研)
※2010年「世界」10月号特集「韓国併合100年」(岩波書店)
※道・白磁の人 浅川巧の生涯 小澤龍一(合同出版)

※北杜市郷土資料館  浅川伯教・巧兄弟資料館ホームページ
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by saiaala | 2012-12-21 10:24 | 映画
日本AALA連帯委員会は、代表理事名で以下のような声明を発表しました。

日本の命運を決める総選挙
―非核・非同盟、国民本位の政治へ 展望を開くために頑張ろう―

 皆さん、いよいよ総選挙です。12月16日投票になりました。今度の総選挙は、内外ともに劇的な変革の中でたたかわれます。
 世界的に見れば、あれ理解損、新自由主義路線など従来の世界秩序は行き詰まりをみせています。その一方で、非核・非同盟、平和共存、国民本位の新しい潮流が大きくなり、平等で公正な新しい世界秩序を求める運動が広がっています。
 日本では、アメリカいいなり、財界中心の二大政党作りが破綻に直面し、国民の運動が各分野で高揚を見せ、多らしい日本の探求がはじまっています。同時に、憲法改悪や核兵器容認など反動的な動きも顕在化しています。対決軸は、憲法擁護か改悪か、安保・米軍基地撤廃か強化か、原発ゼロか存続か、TPP反対か参加か、雇用確保・格差是正か首切りや格差拡大か、消費税にたよらず暮らしを守るか消費税増税かなど、非常に明確です。それだけに選挙の帰趨は、日本の命運がかかっています。また、この対決軸は日本AALAの存在意義とこれからの運動の前進を左右するものです。
 皆さん、このような歴史的に重要な意味を持つ総選挙のたたかいに、出来る力を発揮し奮闘しようではありませんか。                                              2012年11月21日
            日本AALA連帯委員会 代表理事 秋庭稔男 小松崎榮 四ッ谷光子 
                            事務局長 滝本英市


 埼玉AALAは、「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ」埼玉版12月号で、以下の呼びかけを会員のみなさんに行いました。

「アラブの春」から「日本の春」へ

 国会が解散し、12月16日が投票日になりました。憲法改悪、核兵器容認、国防軍の創設、「集団的自衛権の行使」などを制作とする様々な政党が生まれています。憲法、安保、原発、TPP、消費税、どれをとっても日本の進路を決める重大な選択をする選挙になりました。「自分たちが物事を変えることができることを知った「アラブの春」にならって、この歴史的な意味を持つたたかいで「日本の春」を迎えるために行動を起こしましょう。
                                              
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by saiaala | 2012-12-03 09:58
パレスチナ 「国家」に国連総会が格上げ決議をしました


 国連総会は2012年11月29日、国連におけるパレスチナの地位を「オブザーバー機構」から「オブザーバー国家」に格上げする決議を、賛成138、反対9(米国、イスラエル、カナダ、チェコ、パナマなど)、棄権41(ドイツ、英国など)の賛成多数で採択しました。日本は賛成しました。
 決議はパレスチナの地位を「非加盟国オブザーバー」とした上で、パレスチナによる国連への正式加盟申請について「安全保障理事会が前向きに検討すること」に期待を表明。パレスチナとイスラエルの「2国家共存」の実現のため、中東和平交渉の再開おとび加速化が緊急に求められるとしています。

 パレスチナは1974年11月、パレスチナ解放機構(PLO)として総会のオブザーバー資格を獲得。88年12月に現在の「パレスチナ」に改称し、98年7月には総会での発言権を得ました。
 引き続き総会の投票権はないものの、「機構」から「国家」になることで、国際刑事裁判所(ICC)への加入も可能となります。(2012.12.1のしんぶん赤旗より)


パレスチナ 「国家」格上げ決議要旨は以下の通り

 【ニューヨーク=時事】29日に国連総会で採択されたパレスチナの「オブザーバー国家」への格上げ決議の要旨は以下の通り。

一、1967年以降に占領されたパレスチナの領土に独立国家を樹立する権利を再確認する。
一、パレスチナに国連非加盟のオブザーバー国家としての地位を与えると決定する。
一、2011年9月にパレスチナが提出した国家としての国連加盟申請を安保理が前向きに検討することを期待する。
一、イスラエルと、同国と平和に隣り合うパレスチナ国家による、67年の境界線を基本とする2国家共存構想の実現に向けた決意を確認する。
一、中東和平交渉の再開・加速が緊急に必要であると表明する。
一、パレスチナの人々が早く独立と自虐を実現できるよう、国連の全加盟国と機関・組織に支援の継続を強く求める。
一、国連事務総長に対し、この決議の履行のために必要な措置を取り、3カ月以内にその進展を総会に報告するよう要請する。(同じく、しんぶん赤旗より)
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by saiaala | 2012-12-02 10:43