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by saiaala
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日本AALAは、安倍首相の国会における集団的自衛権容認の発言に対し、声明を出しました。

立憲主義を否定し、海外で戦争をする国づくりに突き進む安倍首相
の解釈改憲による集団的自衛権容認発言を断固糾弾する声明


 安倍首相は、2月12日の衆議院予算委員会で、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を容認する考えを公然と示しました。その手続きについても、「最高責任者は私だ。政府の答弁に私が責任をもって、その上で選挙で審判を受ける」と述べ、首相が自由に憲法解釈を変更できるとの見解も述べました。
 集団的自衛権の行使を認めることは、憲法9条を踏みにじるものであり、集団的自衛権は、憲法9条のもとでは認められないのが、日本国民及び日本政府の戦後一貫した姿勢でした。また、「首相の責任云々」は、“選挙に勝てば、首相が自由に憲法解釈を変更できる”というものであり、最高法規としての憲法のあり方を否定し、憲法を普通の法律と同じようにとらえた立憲主義の否定そのものであり、三権分立を崩す妄言そのものです。
 これらの発言は、安倍首相の改憲による「自衛隊が海外で戦争をする国に日本を変える」との策動が国民の反対で思うようにならない中で出された新たな策動であり、国会議員の数にものをいわせようという姑息で倣慢な暴走です。
 日本AAuは、これら憲法と平和を破壊する策動や暴走に断固とし反対し、国民多数の世論によって包囲し粉砕するために奮闘します。

 2014年2月21日
         日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会


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by saiaala | 2014-02-22 17:47 | 声明
名護市長選挙応援!辺野古を激励訪問!!              2014.1.9~12
日本AALA 沖縄激励・連帯の旅 見聞記
                                           埼玉AALA 田中昌子

 一度、沖縄の基地をこの目で見たい、名護市長選では新基地をつくらせないためにも稲
嶺さんの勝利をと思っていたことと、1月9日~12日は、夫が勤務する週でなく義母の世話を夫に任せられたので、このツアーに参加しました。
 「豊かな文化を実感できる旅」を追求してくれる富士国際旅行社のこの旅の内容は、沖縄戦や基地問題に詳しいガイドの川満彰さんのとても分かりやすい話、不屈館での瀬長亀次郎さんの次女の内村千尋さんの話、普天間基地が見渡せる嘉数高台での伊波洋一さんのオスプレイの話、嘉手納基地の所で、不屈の闘いで作った農場で牛を飼育している反戦地主の池原秀明さんの話、辺野古漁港での闘いや新基地建設問題について、名護市共産党議員の具志堅徹さんの話、ヘリパッド建設反対の座り込みを続けている高江での伊佐真次さんの話、沖縄AALAのたみなと先生の話、大宜味村に在住の幸野のさん宅訪問、喜如嘉
の芭蕉布作りの見学、名護市長選の統一連事務局の方の話と実際の応援活動と大変、なかみの濃いすばらしもので、多くのことを学ばせてもらいました。

 沖縄現代史を学ぶ場  不屈館

 那覇空港から車で20分の不屈館は、昨年3月にオープンし、館長は、瀬長亀次郎さんの次女の内村千尋さんです。不屈館は、沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現をめざして命がけで闘った、元衆議院議員瀬長亀次郎が残した膨大な資料を中心に、沖縄の民衆の闘いを後世に伝えようと設立された資料館です。
 1952年の立法院議員就任式典で米軍への宣誓を拒否し着席している亀次郎の写真の話や沖縄復帰後ネバーギブアップの気迫で基地をつくらせない闘いをしてきた話、那覇市長の時は、全国から手紙がたくさん届いたが、有名になり住所が書いてなくても届いた話、千尋さんが小4の時、自宅の隣の刑務所にお父さんに差し入れのお味噌汁を届けた話、千尋さんのお母さん、フミさんも市会議員を4期した話、お父さんが脳腫瘍で倒れてから14年介護した話などを聞いてから館内を見学しました。沖縄の今の粘り強い闘いの歴史が分かり、改めて瀬長さんの不屈の闘いを知ることができました。
 千尋さんは、夜の交流会にも来てくださり、仲井眞知事の公約違反、辺野古承認に沖縄県民は、大変怒っていて「公約は羽毛より軽し」とか、「亀次郎に学べ」と投書で書かれていると話してくれました。

 巨大な米軍基地  普天間・嘉手納基地
b0141610_18561281.jpg 沖縄戦で米軍との激戦地となり、京都出身者の人が多く亡くなった嘉数高台の展望台で伊波さんが待っていて下さり、この日は、風が強く少し寒かったが、下に見える普天間基地を見ながらオスプレイの低空飛行の実態と被害について詳しく話ししてくれました。住宅密集地の中にある普天間基地に数機のオスプレイが配備されているのがはっきりと見えました。教室に響く戦場の音、教諭の声騒音にかき消され、授業中断は日常、校庭の機影恐れの見出しの新聞を見せてもらいながら話を聞き、本当に危険でありこの普天間基地は、一刻も早く撤去しなければと思いました。
 嘉手納基地は、極東最大の米軍基地で広さは、羽田空港の9.5倍もあります。バスで基地の横の道路を通りましたが、広大に続き、中に、弾薬庫もずっと続いているとの説明もありました。この広大な土地が基地でなかったら、自然豊かな沖縄の産業が発達していたのにと単純に思いました。そして、基地のない平和な沖縄を!の思いを強くしました。

  新基地建設問題の辺野古  
  コバルトブルーの美しい辺野古の海の前にあるヘリ基地建設阻止協議会(命を守る会)
のテントで、今まで杭1本打たせなかった新基地建設阻止の闘いの話を聞いた後、漁船に乗り、間近にきれいな辺野古の海を見ながら対岸のキャンプシュワブも見ることができました。初めの海上抗議を行った時は、頑丈なカヌーに乗って行ったということです。また、辺野古沖での防衛局の人との話し合いの時は、立っていると小競り合いになってしまうので座って話し合いをしたそうです。このような非暴力の闘いで、テントでの監視活動を18年間続けているということでした。本当に粘り強い不屈の闘いだと思いました。
 名護市長選の争点の辺野古埋め立てでは、埋め立て申請書から明らかに新基地は、軍港機能を持つことも分かり、埋め立てを絶対許してはならないとの話もありました。
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 キャンプシュワブと境目の金網には、色とりどりの応援の布旗がつけてありました。
 時折、キャンプシュワブの奥からダダダダダッという機関銃での訓練の音が鳴り響きました。海兵隊の少年の目が4か月後には、人間の目ではなく獣のような目になっているという話も聞きました。


 標的の村 東村・高江 
 b0141610_18583175.jpg高江は、沖縄の北部の豊かな森に囲まれたやんばるの森の中にあります。ヤンバルクイナをはじめ世界的に貴重な生物の宝庫です。この高江の隣りに米軍の北部訓練場、ジャングル戦闘訓練センターがあります。ここには、22か所のヘリパッドがあり、爆音や墜落の危険にさらされています。そこえ新たに、高江の集落を取り囲むように6か所のヘリパッドの建設が予定されました。そこで、集落みんなで反対したが受け入れられず、2007年からテントをはり、ヘリパッド基地建設反対の座り込みを続けています。7年間の座り込みの闘いで建設を止めてきたが、今は、2つのヘリパッドの建設がはじまっています。
全国からもたくさんの人達が応援にきてくれています。韓国の教員の人もきていました。スラップ裁判で闘っている伊佐さんは、やんばるの森を守ろうとずっと闘っているが、どうしても限界があるので、国のおおもとの政治を一緒に変えるために連帯してがんばりましょうと話してくれました。

 日本一の長寿の村 大宜味村
 2014年1月3日のしんぶん赤旗に載った「市田さんのひょっこり訪問」でお馴染みの日本AALA常任理事の幸野さんが、自宅の散策も含め村を案内してくれました。沖縄県北部の西海岸に面する大宜味村は、米軍基地はなく、米軍の軍用道路が走っており、人口3300人余の村です。革新の村長であり名護市長選では、稲嶺さんを推しています。9条の会では、月曜日に高江の座り込みテントの方に参加しているとのことでした。村で育った食材で作られた「笑味の店」の長寿弁当をこの日のお昼に頂きましたが、とても健康に良いものばかりで、美味しかったです。
b0141610_18593356.jpg 幸野宅では、見事に実ったシークワーサーをほおばりながら巨大なポインセチアや巨木など沖縄ならではの花や植物を見ながら散策しました。
 喜如嘉(きじょか)地区の芭蕉布会館では、すばらしい芭蕉布の制作過程も見て、ためいきをつきました。芭蕉布の着物一着が数百万円するのも納得でした。

 不屈の反戦地主池原秀明さんb0141610_1901988.jpg 嘉手納基地の金網を横手に見ながら道路をバスで行くと、池原さんの牛舎に着きました。数十頭の牛の前で、どのように、この土地に牛舎を作ったのかを元気な語り口で話してくれました。水道を米軍基地を通して引くことや草を切る機械を入れておく所の厚いシャッターをつけさせる闘いは、法律をよく学習して勝ち取ったこと、1人だけのことでは受け付けないと言われたときには、すぐ畜産仲間を組織して闘ったこと、牛舎の初めの屋根板や杭を夜中に運んで作ったことなど、本当に不屈な反戦地主の話に、元気をもらいました。川満さんが、沖縄で反戦地主で頑張っている人は、今2人で、池原さんは、その1人ですと言っていました。
池原さんは、沖縄市の日本共産党市議です。

 稲嶺市政の前進で、辺野古の米軍新基地建設を許さない運動を支援する活動
 1月10日(金)午後7時30分~9時30分、名護市民会館大ホールで行われた「普天間基地返還と辺野古移設を改めて考える」(稲嶺さんもパネラーとして出演)の新外交イニシアティブシンポジウムにも参加して、稲嶺さんを必ず市長にの思いで11日の名護市長選の応援活動に入りました。朝7時30分から8時30分までの手振り活動では、3差路の道路沿いに、稲嶺ススムののぼり旗を持ち、ドライバーに手を振りました。10台に3、4台の人が会釈をしたり、片手を上げたりしてしてくれました。私の隣で一緒に手振りをしていたのが自民党の人と知り、さすが名護の統一連だなと思いました。9時に統一連の事務局の人から名護市長選の告示にあたっての話を聞きました。今回の市長選は、名護市や沖縄ばかりでなく、日本の未来がかかった重大な政治決戦である。沖縄統一連は、4年前、多くの市民との連帯の力で、「海にも陸にも基地はつくらせない」と訴える稲嶺進市長を誕生させたが、仲井眞知事が埋め立て申請を承認したあらたな情勢のもとで、この再選を勝ち取るため全力をあげるものである。1月8日の総決起大会には3800人余の市民が参加し、4年前の2倍以上となった。
 相手陣営は、知事の不当な埋め立て承認以降、安倍内閣や仲井眞知事、自民党本部、防衛省が総がかりで、なりふり構わぬ本格的な巻き返し作戦を展開している。病気と言われた仲井眞知事が名護に乗り込み、建設業者を集めて秘密裏の会合をひらくなど、締め付けと圧力で票をかすめ取ろうとしている。また、告示日に、沖縄選出国会議員を屈服させた石破自民党幹事長が、選挙中には、菅官房長官や小泉進次郎議員などの自民党幹部が次々と名護入りし、締め付けを強めようとしている。このような権力を総動員した相手陣営の激しい巻き返しが始まっており、われわれがそれを上回り、打ち勝つ宣伝・組織活動を展開することが急務となっている。などの話を聞いた後、埼玉AALAや日本AALAなどからの応援カンパや檄旗を渡しました。その後、羽地という所で8人1組に分かれ、ハンドマイク、のぼり旗、政策ビラ、カードなどを持ち個別訪問をしました。「こんにちは、きのう見てきた、きれいな辺野古の海を基地にしないために、稲嶺さんをよろしくお願いします。埼玉、東京からきました。」というと、そんなに遠くから応援にきてくれたのと感激されたり、皆さんで食べて下さいと手作りのサーダーアンダギーを頂いたりと、こちらも元気をもらったりと楽しく活動できました。私たちが昼食をはさみ、2ラウンドして終わって帰るとき、全国の民医連の若者たちが、バスで来ていました。

 沖縄戦 日本に於ける唯一の地上戦の悲惨さ
 沖縄戦の概要
  沖縄戦とは太平洋戦争の最終段階、1945年3月下旬から7月までの戦いを言います。1941年に太平洋戦争が勃発し、太平洋の島々で劣勢となった日本軍は、米軍が沖縄に上陸すると見て、米軍を沖縄にくぎづけにする作戦をとります。それは、本土決戦の準備をするための時間稼ぎであり捨石作戦でした。このため、沖縄は唯一の地上戦の場となります。
 米軍は1945年の4月1日に沖縄本島の中部に上陸し、日本軍の指令部のあった首里に向かいます。米軍の圧倒的な戦力に、首里の陥落が目前にせまったところで日本軍は南部へ撤退します。米軍の上陸地点から首里城指令部までを中部戦線、首里以南を南部戦線と言います。南部戦線では十数万人の一般住民が巻き込まれ悲惨な結末を迎えることになります。
 6月23日、牛島司令官の自決により日本軍の組織的戦闘は終了しますが、その後も各地で戦闘が続き、米軍が作戦終了を宣言したのは7月2日のことでした。この90日間にわたる沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2千人、一般住民9万4千人が亡くなりました。当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、県民の4人に1人が亡くなったことになります。

(沖縄戦の実相を現在に伝える糸数アブチラガマの資料より)
 地獄の戦場追体験の糸数アブチラガマ
  アブチラガマは、全長270mの自然洞窟です。沖縄戦の時、もともとは糸数集落の避難指定壕でしたが、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、ガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。この壕の中を、ヘルメットをかぶり懐中電灯を持って、川満さんの案内で歩きました。洞窟なので真っ暗で、懐中電灯で足元を照らしながら進み、このへんにベッドがあったり、井戸やカマドがあったり、軍医がいた所があったりと、所々で説明を聞きながら歩きました。助からないとわかった負傷兵に青酸カリの入ったミルクを飲ませたり、クレゾールの液を注射して殺したとの話も聞きました。壕の中に死体置き場もあったと聞きました。沖縄戦の当時の壕の中は、まさに地獄絵の世界だったことがわかりました。
 この壕を観光地化して、電気をつけたほうがいいとの意見もあったが、沖縄戦の追体験の意味で真っ暗な中を歩いてもらったほうがいいと今のようになっているとの話もありました。

 ひめゆり平和祈念資料館
 b0141610_2223446.jpg米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校から240名が南風原の陸軍病院に配属されました。学徒たちは、後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われます。5月下旬、米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。6月18日、学徒たちは突然の解散命令に絶望し、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された240人中136人、在地部隊その他で91人が亡くなりました。沖縄戦では、ひめゆり以外にも数多くの学徒隊が動員され、1998名の学徒が戦死しました。
 あれから40年以上たちましたが、戦場の惨状は、私たちの脳裏を離れません。私たちに何の疑念も抱かせず、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育の恐ろしさを忘れていません。
 戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、未だ紛争の絶えない国内・国際情勢を思うにつけ、私たちは一人一人の体験した戦争の恐ろしさを語り継いでいく必要があると痛感せざるをえません。平和であることの大切さを訴え続けることこそ亡くなった学友・教師の鎮魂と信じ、私たちはこの地にひめゆり平和祈念資料館を建設いたしました。戦争体験者が年々少なくなっていく中、若い世代に戦争の実態をより分かりやすく伝えるために、2004年4月、全面的な展示改装を行い、さらに平和絵の思いを未来へつないでいくための「平和への広場」を増築いたしました。(設立についての資料より)
 沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒と教師の227名の遺影や生存者の証言本を見ると、戦争の惨さ、恐ろしさをひしひしと感じるとともに、夢見る年頃のごく普通の明るい青春を戦時色に塗り替えた「戦争と教育」の恐ろしさを改めて痛感しました。

 首里城地下の日本軍第32軍司令部壕説明版
 
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かつて、琉球王朝時の都として栄えた首里城ですが、沖縄戦の時は、この旧都の地下に縦横に壕が掘りめぐらされ日本軍第32軍の司令部が置かれました。壕内は五つの坑道で
 結ばれていましたが、現在、坑口は塞がれ、中に入ることはできません。壕の近くに、第32軍司令部壕の説明版がたてられている。その説明の内容が仲井眞知事の時、歪曲されたと川満さんが話してくれました。壕の中で書かれた日記が見つかったが、「風呂は、まだか。」という流暢なものだったということでした。

 少年護郷隊の碑と碑文
 b0141610_2247100.jpg名護小学校の高台に、沖縄戦を持久戦で続けるために集められた北部の少年兵たちの碑がたっている。碑文に詳しく書かれているが、1944年10月に集められた14歳、15歳の少年たちは、陸軍中野学校を出た村上はるおの下で、ひどく暴力的な訓練で、スパイやテロのやり方を習った。米軍を夜襲するため自分の故郷と家を焼いてしまったり、スパイだとみなされてしまった同郷の友達を殺せと命令されて2人がかりで殺したこともあったそうです。故郷で戦争するのは、本当に惨いことだと、聞き取りの時に言われたと川満さんが言っていました。沖縄戦で集められたこの北部の少年兵たちは、護郷隊という名前だが実は遊撃隊であったということです。

 県立平和祈念資料館
 1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の爆風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。
 沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は、10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
 「沖縄のこころ」とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心であります。
 私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人々に私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。
                       (設立理念の資料より)

 韓国人慰霊の塔
b0141610_224575.jpg 太平洋戦争が勃発するや多くの韓国の青年たちが、日本に強制徴兵させられ戦死したり虐殺されたりした。その慰霊として、1975年8月にできた塔の碑文には、1万余名の韓国青年たちが強制徴兵されたと書かれていた。塔の後ろには、韓国のお墓の丸く盛り上がった物が大きく作られ、塔の前の石畳の所には、大きな矢印がありました。矢印は、母国の韓国の方向をさし、丸く盛り上がったお墓は、お母さんのおなかの中に入りなさいとの優しい意味があるとの話も聞きました。
 虐殺の事実では、朝鮮人というだけで村の中でスパイ容疑をかけられ、見せしめで村中をひきまわされ、7才の子どもと奥さんもなくなった事例を川満さんが話してくれました。

 平和の礎
 1995年、太田知事の時沖縄戦50周年にあたり、沖縄戦で亡くなった人を調べ名前
を碑に連ねた。平和の波をあらわすように名前が書かれた石碑が、軍人、一般人、沖縄
以外の県ごと、外国人と区別して立っている。全体の前の花をたむける場所は、軍人の石碑の前に作られています。一般人の石碑の前ではないことは、川満さんから話を聞いてわかりました。礎には、名前だけしか書かれていないが、一人一人の死に方を調べないと真実は見えてこないこと、沖縄戦で一番ひどい目にあった人たちを調べることが事実を知るうえで大事なことであるという指摘もありました。
 右傾化の様子もあり、夜中の3時に自衛隊員が平和の礎の牛島満の碑に向かって敬礼していたことがあったそうです。また、沢山ある碑文が、時代とともに書き替えられたり
と靖国化してきているとの話もありました。

 終わりに
b0141610_2254955.jpg この沖縄の旅から帰り、名護市長選の動向を気にかけていましたが、19日の夜に稲嶺さんの当選がわかり、本当にうれしかったです。微力ながら、この歴史的な選挙に携わり沖縄の人々と連帯できたことを誇りに思います。
 初めての沖縄の旅でしたが、沖縄戦の詳しい説明を聞き、巨大な米軍基地を、この目で見、基地があるがために闘わなければならない沖縄の歴史を知ることができました。そして、今も続いている沖縄の不屈の闘いを学んだ旅となりました。
 平和祈念資料館の資料のプロローグに「かつて琉球の先人は 平和をこよなく愛する民として 海を渡り アジア諸国と交易を結んだ 海は 豊かな生命の源として 平和と友好の掛け橋として いまなお 人々の心に息づいている」と書かれてあるが、基地のない沖縄・平和な沖縄にしていかなければの思いを強く感じた旅でした。そして、二度と戦争の火種をつくらせないように、今の危険極まりない安倍政権との闘いを粘り強く進めていかなければならないと思いました。

 (この沖縄の旅から帰った17日の金曜日に、東村・高江の標的の村の映画の上映会を行ったが、3回上映で668名が視聴、スラップ裁判の署名760筆と大成功でした。)

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by saiaala | 2014-02-13 18:19 | まなぶ